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 文化の仕掛人 米替誓志の軌跡(7)

■ 7. 本間四郎と中村八大(1)

文化の仕掛人

本間四郎と中村八大の出逢いは、昭和20年に遡る。

終戦を迎えたその年。四郎は当時本間家が居を構えていた西町亀甲で、父が姉のために運んできたピアノに毎日向かっていた。日本中がまだ茫然自失だったその頃、四郎もイライラをピアノにぶつけるようにそれまで弾いていた学校の歌や軍歌ではなく、クラシック音楽に取り組んでいた。

そんなある日、練習していたシューベルトの曲に合わせて軽快なピアノの音が流れてきた。驚いて塀越しに隣を覗くと、グランドピアノの前に座った小さな男の子が鮮やかなマーチを奏でていた。

中学明善二年、中村八大。中国青島から引き上げ、津福本町の祖母の家に身を寄せていた八大が本間家の隣に越してきたのだ。四郎との初めての出会いである。

新制高校に移行する直前の昭和23年、四郎と八大は隣の久留米高女の講堂を借り、大文化祭を開催。この時のど自慢大会で、八大は即興のピアノ伴奏を行い周囲をあっといわせた…伝説の始まりである。出演者は決まっていたものの、我も我もと飛び入りが続出、興に乗った八大も笠置シズ子の「セコハン娘」を歌ったという。人前で歌ったのはおそらくこれが最初で最後だったのではないかといわれている。八大はこの年を最後に早稲田高校へ転校していく。

米替が初めて八大を観たのはそれから5年後の昭和29年だった。有楽町の日劇に並んで、すでに人気急上昇だった八大の「ビッグ・フォー」に魅入っていた頃だった。

石橋文化ホール初登場となった昭和41年8月10日「中村八大クインテット公演」のステージをサポートしながら、米替は明善時代からずっと聞いていた「伝説の…」が頭から離れることがなかった。すぐ側にいることすら不思議に思えた。

「これが伝説の天才・中村八大か」 (続)



DATE:Dec.2005 ; on CALCATCH KURUME NEWS [Kurume City]
*カルキャッチくるめ [1992-2008;Kurume City]
ふるさと創生一億円事業を基金として久留米の草の根文化を育て、文化都市久留米を創出していく目的で1992年に設立された。正式名称「久留米市文化創生市民協会」。100人を越す民間ボランティアで構成、自主事業、人材開発事業など様々な活動を行った。2008年3月解散。

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