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 久留米つばき園

ツバキの歴史



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19世紀のフィラデルフィアのツバキ裁培者 P.S.Duvalの菜園
ヨーロッパに初めて東洋のツバキが渡ったのは、1680年頃だといわれています。ツバキ[Camellia]の名前は、1706年にマニラで死んだドイツ人のイエズス会士使節で植物学者のゲオルク・カメル[Georg Kamel]にちなんでつけらました。



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1690年代前半に長崎に住んでいたオランダ人エンゲルベルト・ケンペル[Engelbert Kaempfer]による図版。初めて「Tsubaki」の和名も登場する。

以来、欧米では観賞用の園芸植物としてさかんに栽培されるようになりました。日本で最も栽培が進んだのは江戸時代に入ってからですが、どちらかというと近世まで「茶花」としての存在感が大きかったようです。

京都の龍安寺には室町時代のツバキが残っています。ツバキは他家受粉で結実するために変種が生じやすいことから、古くから品種改良が行われてきました。

江戸時代には多くの寺院、武家屋敷が建築されるようになり、庭園の整備が進みます。徳川秀忠が吹上御殿に花畑を作り多くのツバキを含む名花を献上させ、これが江戸ツバキの発祥といわれています。

武家文化の発展とともに、園芸植物としてさかんに観賞されるようになり、後期には全国各地で盛んに栽培され、独自の品種が生まれ発展していきます。同時代に確立された茶道においても大変珍重され、冬場の炉の季節は茶席が椿一色となることから「茶花の女王」と呼ばれています。

久留米では江戸時代から植木・苗木生産が振興されたことにより、耳納北麓一帯ではツバキ類が多くの畑で育てられ、域外へ出荷され続けましたが、1950年代までは専門業者として育成したツバキに久留米産ツバキに独自の名をを冠して流通させるという事はなかったようです。

1830年にシーボルト博士がオランダ王国(現ベルギー)に接ぎ木苗を持ち帰り、ドンケラール氏らの努力でヨーロッパに普及した「Donckelaeri」の母樹は、草野町に現存する久留米つばきの「正義」の枝変わりと推定されています。このほか「久留米源氏」「白玉宝珠」「貴公子」「久留米玉手箱」「カーネーション椿」などの名椿の原木と推定される古木が保存会によって認定されています。推定樹齢300年を超える大樹も健在で、社寺や民家には古木・名木が数多く保存されています。

ヨーロッパにわたったツバキは、日本でのそれが「侘び・寂び(ワビ・サビ)」の文化を中心に発展したのに比して、冬にでも常緑で日陰でも花を咲かせる性質が好まれ、大変な人気となり、西洋の美意識に基づいた豪華な花をつける品種が作られました。1840年代は第1次のブームと呼ばれています。

20世紀に入っての世界的な第2次ブームによりつばきの栽培は欧米、ニュージーランド、オーストラリアから南アフリカにまで広がり、日本を代表する国際的な花木になりました。1965年、中国で黄色の品種「金花茶」が発見され、それ以降再び世界的なツバキブームが起こります。

久留米市では1959年、久留米市農林課と久留米農業改良普及所が有志70余名を募って「久留米観賞植物育成研究会」を発足。同研究会は九州農業試験場園芸部の指導・助言を受けながら、ツツジ・ツバキ・竹類などについて品種の収集や育種を精力的に行いました。この研究会からツバキ類の専門業者が次々と育ちます。

1967年、「つばき部会」立ち上げ。世界的なツバキブームが追い風となり、新花の開発が盛んに行われ、久留米はツバキ類の多様な品種の供給産地として発展、20世紀末にはツバキ類の苗木生産量が全国第一位を占めるまでになりました。




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